なぜ日本人は、クリスマスにKFCを食べるのか
日常 · 2026-07-03 · 約1,800字 · 約3分
目次 (5)
- 「クリスマスにはケンタッキー」の始まり
- 予約という儀礼
- 七面鳥のいないクリスマス
- 楽しいけれど、少し割高でもある
- 言われてみれば
毎年十月になると、近所のケンタッキーフライドチキンの店頭に、クリスマスバーレルの予約受付の看板が立つ。「今年もか」と思いながら、でもたいていは予約する——あるいは、予約するのが当然という感覚で、特に考えずに手続きを済ませる。
ふと立ち止まって考えると、不思議な話だ。なぜ、クリスマスにケンタッキーなのだろう。
「クリスマスにはケンタッキー」の始まり
1974年、KFCジャパンが全国キャンペーンを始めた。コピーは「クリスマスにはケンタッキー」。サンタ帽をかぶったカーネル・サンダースと、赤と白のバケツが、日本のクリスマスの食卓に初めて公式に登場した瞬間だ。
それ以前にも、外資系ホテルや一部の家庭では、クリスマスに鶏肉を食べることがあった。でも「これをするのがクリスマスだ」という明確な型はなかった。KFCがその型を差し出した。コマーシャルを流し、翌年も流し、また翌年も流した。
気がつけば一世代後には、「クリスマスといえばケンタ」が当たり前になっていた。
この記事で立てたい核文はひとつだ。広告が伝統になるのは、マーケティングが巧みだったからではなく、繰り返された喜びが本物だったからだ。
KFCのクリスマスが定着したのは、食べた人たちが実際に楽しかったから、おいしかったからだと思う。翌年も頼んだ。翌年も頼んだから、自分の中の「クリスマスの記憶」として刻まれた。刻まれたから、子どもにも伝えた。マーケティングは型を作っただけで、それを伝統に育てたのは、食卓の笑顔だったのかもしれない。
予約という儀礼
現代のKFCクリスマスには、特有の「儀礼」がある。
十月に予約する。あるいは、うっかり忘れて十二月に慌てて電話して、「すでに満席です」と告げられる。人気店では予約が数日で埋まることもある。当日は予約票を持って店に並び、名前が呼ばれると赤と白のバッグを受け取る。
この「受け取る」という行為が、どこか儀礼めいている。
七面鳥を丸ごと焼く、おせちを仕込む——そういった手間とは比べものにならない。でも、「予約して、当日受け取りに行く」という手順が、その日を特別な日にする何かになっている。手間が少ないのに、「やった感」がある。それがこの伝統の、ちょっと面白いところだと思う。
七面鳥のいないクリスマス
正直に笑えることを一つ書いておく。
ヨーロッパや北米のクリスマスで本来食べるのは七面鳥だ。だが日本のクリスマスには、七面鳥がほぼ存在しない。代わりに、フライドチキンが「クリスマスらしい食べ物」の座についている。
この置き換えは、考えれば考えるほど奇妙で、同時におかしい。キリスト教の伝統もなく、七面鳥の供給も限られ、でもクリスマスという輸入イベントには「それらしい食べ物」が必要で——そこにKFCが手を挙げた。文化の空白に、広告が滑り込んだ。
日本の「クリスマスらしさ」は、案外、1974年から始まっている。
楽しいけれど、少し割高でもある
影も書いておきたい。
KFCのクリスマスセットは通常メニューに比べてかなり高く、家族向けは4,000〜6,000円前後になることが多い。「クリスマスだから」という空気の中で、それが「当然の出費」に見えてくる。
これは伝統が商業圧力と同化した結果でもある。食べたいから食べるのか、「クリスマスらしくないといけない」から食べるのか——その境界線は年々薄くなっているかもしれない。選ぶ自由があるはずなのに、「選ばない自由」が少し遠く感じることがある。
それでも、おいしいのは本当だし、囲む食卓の温かさも本物だ。両方が同時に真実だと思う。
言われてみれば
毎年十二月、赤と白のバケツを囲んで「クリスマスだね」と言う。それは本物の温かさだ。起源が広告であっても、繰り返された喜びは本物になる。
ただ一度くらい、「これはなぜ始まったのか」と立ち止まってみることで、見え方が少し変わるかもしれない。
あなたが毎年当たり前のようにしている「クリスマスの過ごし方」——それは、いつ、誰が決めたのだろう。
主な参照
- KFCジャパン公式サイト(kfc.co.jp)のブランド・キャンペーン関連情報
- 「クリスマスにはケンタッキー」キャンペーンの経緯:日本経済新聞・東洋経済等のビジネスメディア各報道
- この記事は公開情報と日常の観察にもとづく個人的な読みです
タテ社会の人間関係(中根千枝)
日本社会の人間関係を「タテ」の構造から読み解いた古典的論考(1967年)。集団がなぜそう動くのかを考える手がかりに。
「甘え」の構造(土居健郎)
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