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なぜ日本の学校では、生徒が掃除をするのか

地方の暮らし · 2026-06-08 · 約1,400字 · 約3分

目次 (5)
  • 給食の後、箒を手に
  • コスト削減でも罰でもない——1947年からの教育実践
  • 「使う人が整える」という前提
  • 実態は理念通りではないことも
  • 問いかけに変えて

給食のトレーが片付けられた。インターコムからチャイムが鳴る——校歌や選ばれた曲が流れる学校もある。椅子が机の上に逆さに置かれ、机が端に寄せられる。生徒が箒を手にとって、廊下の担当班が動き始める。

清掃員ではない。用務員でもない。10分前まで同じ椅子に座って授業を受けていた、同じ生徒たちが掃除を始める。

給食の後、箒を手に

この日課は「掃除(そうじ/お掃除)」と呼ばれる。週4回ほど、給食後の約20分間、学校全体が掃除モードに入る。生徒はエリアに分かれてローテーション担当を受け持つ——教室、廊下、トイレ、玄関。担当は定期的に変わる。

コスト削減でも罰でもない——1947年からの教育実践

よく聞かれる誤解:「掃除員を雇う予算がないからでは?」

違う。日本の学校には用務員がいて、生徒の届かないメンテナンスを担っている。生徒掃除はコスト削減のための代替措置ではない。

文部科学省の学習指導要領(1947年制定)に「特別活動(tokkatsu)」の一環として掃除が明記されている。戦後の教育制度設計において、清掃は学力や体育と並んで人格形成の要素として位置づけられた。Omakase Tokyoによれば、この「使う場所を整える責任」という発想が、戦後教育制度の中核に据えられた。

この実践は海外にも広まっている。2026年時点でエジプトの18,000校以上が特別活動の要素を導入しているとBrightVibesは報告している。

「使う人が整える」という前提

ここは私の読み方として聞いてほしい。

掃除で印象的なのは、清掃そのものよりも、その下にある前提だ:その場所を使う人が、その場所を整える。これは効率的ではない(実際そうではない)し、お金の節約にもならない(正確にはそうではない)。けれどこの発想では、「学校は自分たちのものだ」という感覚が、生徒の中に育つ可能性がある。

トイレを自分の手で掃除したことがある生徒は、したことがない生徒とは、何か少し違う人間になる——かもしれない。

これが正しい教育方法なのか、意図した人格形成の効果が出ているのか、そのコストは正当化されるのか、私にはわからない。

実態は理念通りではないことも

すべての学校が同じ深さでこの取り組みを行っているわけではない。一部の学校では、生徒が形だけ素早く片付けて実質的に終わらせるルーティンになっている。意図と実態は離れることがある。

担当エリアの問題もある。清掃ローテーションが常に公平と感じられるわけではなく、誰がトイレを担当するかには、教室内の社会的な力学が働くこともある。

学習スケジュールが過密な高校生にとって、20分の掃除時間は人格形成の機会ではなく、薄いスケジュールからの差し引きと感じられることもある。

問いかけに変えて

給食の後、掃除の時間がある。それが当たり前だった。でも考えてみると、これは世界では珍しい——学習指導要領に書いてある「掃除」という教育活動。あなたは掃除の時間をどんな気持ちでやっていましたか?


主な参照

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