なぜ電話だと「もしもし」と言うのか
言葉と感じ方 · 2026-06-21 · 約2,500字 · 約5分

目次 (7)
- 「申す申す」が縮んだ言葉
- 声だけの空間で「ここにいます」と言う
- 「もし」と「もしもし」は別の言葉
- 「もしもし」への返事、かけるときの言い方
- 妖怪は「もしもし」と言えない、という話
- ビジネスでは「もしもし」が失礼になる
- 言われてみれば、ずっと言っていた
電話が鳴る。反射的に出て、「もしもし」と言う。それだけのことだ。でも、ある日ふと考えてしまった——なぜ「もしもし」なのか。「はい」でも「どうぞ」でもなく、なぜその二つの音を、しかも二回繰り返すのか。
言われてみれば、ずっと使ってきたけれど、語源を考えたことなど一度もなかった。
「申す申す」が縮んだ言葉
「もしもし」の語源は「申す申す(もうすもうす)」とされている。「申す」は「言う」の謙譲語——自分を低くして話す形だ。
明治23年(1890年)、日本に電話が開通したとき、回線をつなぐ電話交換手たちは「申し上げます、申し上げます」という呼びかけで接続を知らせていたと伝えられている。顔も表情も見えない相手に、まず丁寧に自分の存在を告げる。声だけで届くまったく新しい通信手段の中で、それは自然な出発点だったのかもしれない。やがてその呼びかけが「もうすもうす」へ、さらに「もしもし」へと縮んで定着していった。
つまり今日、私たちが何気なく口にする「もしもし」には、130年以上前の電話交換手の声が、形を変えて残っている。
声だけの空間で「ここにいます」と言う
ここで少し想像してみてほしい。明治時代に初めて電話を受けた人のことを。
顔が見えない。身振りも読めない。部屋の空気も伝わらない。ただ、どこからか声だけが届いてくる。そのとき最初に伝えなければならないのは「自分がここにいる」という事実だったのではないか——私にはそう感じられる。「もしもし」は、声だけの場所での「名乗り前の名乗り」だったのかもしれない。謙りながら、しかし確かに存在を示す言葉として。
もっとも、これは私の読みにすぎない。言葉の歴史は複雑で、ひとつの解釈に収まるものではない。
二回繰り返すことにも、おそらく理由があったのだろうと思う。雑音の多かった初期の電話回線では、一度では届かなかったかもしれない。二度言って初めて「ここにいる」と確認できる——そういう実用的な積み重ねが、習慣として定着したとも考えられる。
もうひとつ、個人的に気になっていることがある。「申す」は自分を低くする言葉だ、と先に書いた。声だけで、しかも相手が誰かもまだわからない電話の最初の一声に、わざわざへりくだる言葉を選んでいた、ということは——名乗る前から、まず相手を立てる姿勢を取っていた、ということでもある。これは、おもてなしの精神と、根っこでは同じ場所にある気がする。何を求められているかまだわからない段階から、先回りして相手のための構えを取る。「もしもし」という、今ではほとんど記号のような一言の底にも、そういう古い作法の名残りがあるのかもしれない。
「もし」と「もしもし」は別の言葉
ここで、よくある勘違いを片づけておきたい。
「もし(若し)」という言葉がある。「もし雨が降ったら」のように、仮定を表す「if」にあたる言葉だ。「もしもし」を「もし」を二回言っただけの言葉だと思っている人もいるかもしれないが、これは違う。
「もしもし」の語源は、先に見た「申す申す」であって、仮定の「もし」とは語源がまったく別だ。たまたま「もし」という音が重なって聞こえるだけで、二つの言葉のあいだに歴史的なつながりはない。日本語を学ぶ人が最初につまずきやすいポイントのひとつでもある。
「もしもし」への返事、かけるときの言い方
「もしもし」は、電話に出る側だけの言葉ではない。
友人や家族への私用の電話なら、かけた側も「もしもし、〇〇だけど」と名乗ることが多い。出た側も「もしもし、はいはい」と応じる——「もしもし」が両方向から一往復する形が、いちばん自然な私用電話の始まり方だ。電話の途中で声が途切れたときに挟む「もしもし?」も、同じ言葉の別の役割で、「まだそこにいる?」という確認になる。
一方、会社にかかってきた電話に出るときは、「もしもし」を使わず「はい、〇〇会社でございます」といきなり名乗るのが基本形だ。かける側も同様で、「お世話になっております、〇〇会社の〇〇と申します」と名乗ってから本題に入る。「もしもし」というたった二音の言葉ひとつで、その電話が私用なのか仕事なのかが、最初の一声で相手に伝わってしまう。
妖怪は「もしもし」と言えない、という話
余談として、面白い俗説がある。「妖怪や化け狐は『もしもし』と二度繰り返せない」という話だ。だから電話口で正確に「もしもし」と言えたなら人間の証拠——という論法で、インターネット上によく語られる。
ただ正直に言うと、この説の史料的な裏付けはあまり明確ではない。電話が普及したのは近代以降で、古典的な妖怪譚とは時代が合わない。愉快な話として楽しむ分にはいいが、歴史的事実として語るにはやや慎重でありたい。
ビジネスでは「もしもし」が失礼になる
ここに、日常語の意外な落とし穴がある。
友人や家族への電話で「もしもし」を使うのは何も問題ない。でも、仕事の電話でそのまま「もしもし」と出ると——相手に失礼と受け取られることがある。ビジネスの場では「はい、○○会社の△△でございます」と名乗るのが正式だ。
「もしもし」は親しい間柄のカジュアルな言葉として定着しすぎたがゆえに、仕事の場では逆に礼を失する。言葉が「居場所」を持っている、ということでもある。日常では何の気なしに使っていた言葉が、場面によっては意識的に外さなければならない——そういう罠が身近なところに潜んでいる。それは少し不思議でもあり、言語というものの面白さでもあると思う。
言われてみれば、ずっと言っていた
電話のたびに「もしもし」と言い続けてきた。その言葉が「申す申す」の名残で、明治の電話交換手が声だけの空間で使い始めた呼びかけだったとは——改めて考えたことがなかった、という人も多いのではないだろうか。
正直に言えば、自分も含めて、多くの日本人は「もしもし」の意味など、ほとんど意識していない。「申す申す」が縮んだ形だと知っている人でさえ、電話口でその意味を思い浮かべたりはしない。ほとんど記号のように、条件反射で口から出てくる。「もうす、もうす」が「もしもし」になったその瞬間に、言葉はもう意味の器であることをやめて、ただの合図になったのかもしれない。それでも通じるし、誰も困らない。言葉というのは、そうやって意味をすり減らしながらも、音だけが残っていくものなのだろうと思う。
声だけで届く場所で、まず丁寧に自分の存在を告げる。その小さな作法が、意味を忘れられたまま、形だけ今も続いている。あなたが次に電話に出るとき、「もしもし」という言葉が少し違って聞こえるかもしれない。
主な参照
- 日本国語大辞典(小学館)「もしもし」項
- NTT史料・電話開通関連記録(明治23年/1890年)
- 妖怪説については史料的根拠が確認できないため、本記事では俗説として扱っています
- 「もしもし」と「もし(若し)」の語源上の違いは各種国語辞典による。おもてなしとの接続は個人的な読みです。
「いき」の構造 他二篇(九鬼周造)
「いき」という美意識を哲学的に分析した名著。言葉にしにくい感覚をどう捉えるか、その一つの試みとして。
「甘え」の構造(土居健郎)
「甘え」という言葉を軸に日本人の心理と人間関係を論じたロングセラー。所作や言葉の奥にある感覚を掘り下げたい人へ。
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