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なぜ「いってらっしゃい」には、返事があるのか

言葉と感じ方 · 2026-06-19 · 約1,800字 · 約3分

目次 (4)
  • 「行って」の中に、「来る」が入っている
  • 玄関という閾(しきい)のこと
  • 言う相手がいないとき
  • 言葉が先か、気持ちが先か

朝、玄関で靴を履きながら「行ってきます」と言う。すると奥から「いってらっしゃい」が返ってくる。

何千回と繰り返したはずのこのやりとりを、あるとき急に不思議に思った。別れの挨拶は、ふつう出て行く側のものだ。「じゃあね」「またね」——相手が何か言っても言わなくても、それで完結する。なのに「行ってきます」には、「いってらっしゃい」という決まった返事がある。しかもそれがないと、なんとなく送り出しが途中で止まったような感じがする。

なぜ、残る側にも言葉があるのだろう。

「行って」の中に、「来る」が入っている

「行ってきます」を分解すると、「行って」+「来ます」だ。

「帰ります」ではない。「行ってきます」だ。行くことと戻ることが、最初から一つの言葉のかたちに折り畳まれている。出発の宣言の中に、すでに帰りが約束されている。

これが、このやりとりの核心だと思う。「行ってきます」は別れの言葉ではなく、戻りの約束だ。

だとすれば、「いってらっしゃい」の意味が変わって見える。「行っていらっしゃい」——これは命令形に近い構造で、「行って、ちゃんと戻ってきなさい」に近い。「気をつけてね」のような願望ではなく、帰りを前提にした送り出しだ。約束する人と、その約束を受け取る人。この二つが揃って、はじめて出発が完結する。

玄関という閾(しきい)のこと

このやりとりは、いつも玄関で起きる。

外と内の境目。靴を脱ぐ場所。どちらの世界にも属しきっていない、少し宙吊りの空間だ。その閾で「行ってきます」と言い、「いってらっしゃい」を受け取って扉を開ける。

考えてみれば、ずいぶん丁寧な儀式だ。出るたびに約束して、帰るたびに「ただいま」で報告する。「ただいま」もまた「ただ今、戻りました」の略で、約束の履行だ。「おかえり」はそれを受け取る言葉。

行ってきます → いってらっしゃい → ただいま → おかえり。

この四つが一日の往復を言葉で囲んでいる。家族と暮らしていると、毎日ほとんど無意識にやっている。言われてみれば、なんて丁寧な構造だろうと思う。

言う相手がいないとき

ここで少し立ち止まる必要がある。

一人暮らしをしている人は、「行ってきます」を誰に言うのか。

日本では単身世帯が増え続けており、全世帯の三分の一以上が一人暮らしとされている(総務省 住宅・土地統計調査)。玄関で声をかける相手がいない。「ただいま」と帰っても「おかえり」は返ってこない。ペットに向けて言う人もいれば、習慣で空の部屋に向かって言う人もいる。黙って扉を閉める人もたくさんいる。

往復の約束は、受け取る人がいてはじめて成り立つ。「いってらっしゃい」のない「行ってきます」は、宙に浮いた約束だ。その不完全さは、温かいやりとりの形を知っているからこそ、かえってはっきり感じられる。

これを責めているわけではない。一人暮らしには一人暮らしの豊かさがある。ただ、言葉の形が誰かの不在をくっきり照らし出すことがある——というだけの話だ。温かいものと寂しいものは、表裏一体でそこにある。

言葉が先か、気持ちが先か

「行ってきます」と「いってらっしゃい」は、感情から生まれた言葉というより、繰り返すうちに感情の器になっていった言葉かもしれない。

毎朝ほとんど自動的に交わす。でも、その積み重ねが、家を出るときに声をかける習慣になり、誰かに送り出される感覚の土台になる。言葉が先にあって、後から気持ちがそこに宿ることもある。

逆に言えば、その言葉をやめたとき——引っ越した日、一人暮らしを始めた朝——に初めて、その重さに気づく人も多いのかもしれない。

あなたは今日、誰かに「いってらっしゃい」と言っただろうか。あるいは、言われただろうか。

言われてみれば——この往復は、出発の挨拶ではなく、帰還の約束だったのかもしれない。あなたの「行ってきます」は、誰に向けて言う言葉だろう。


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