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なぜ『となりのトトロ』は、こんなにも記憶に残るのか

物語とキャラ · 2026-06-08 · 約1,300字 · 約3分

目次 (4)
  • 何も「起きない」映画
  • 気配として置かれたもの
  • 失われゆく里山への郷愁
  • 問いかけに変えて

バス停で雨宿りする父と二人の娘。大きな葉を傘に、足元には水たまり。そこに現れるトトロ。何をするわけでもない——雨を一緒に聞いているだけだ。

この場面を観た人の多くが、何十年後も覚えている。なぜか。

何も「起きない」映画

宮崎駿の1988年の作品(1988年公開)は、ほとんど「何も起きない」映画だ。主人公のさつきとめいが田舎の家に引っ越す。森の生き物に出会う。母が入院中だがドラマチックな展開はない。クライマックスと呼べる場面は短い。

普通の物語の定義でいえば、これは事件が少なすぎる。にもかかわらず、観た人の記憶に深く刻まれる。

核文: トトロは出来事ではなく「気配」を描いた映画だ。

気配として置かれたもの

映画の中でトトロが実際に登場するシーンは少ない。多くの場面で、トトロは音・影・存在感として示される——葉のゆれ方、夜の物音、足跡。この間接性が、かえって印象を強くしているかもしれない。

宮崎作品は全般に、説明しない。バス停の雨のシーンには台詞がほとんどない。それでも何かが伝わる——一人でいる夜の心細さ、大きな存在に守られる感覚、「ここには何かがいる」という子どもの確信。

観察できることを言い切るなら:カメラが何もない草むらに長く止まるとき、そこには「見えないが確かにいる」という演出がある。それが機能するのは、見る側がその感覚をどこかで知っているからかもしれない。

実際の日本の里山にも、これと似た感覚がある人がいる。木の影、風の音、昼間でも薄暗い雑木林——説明できないが「何かいる」という子どものころの感覚。トトロはそれに形を与えた。

失われゆく里山への郷愁

ただし、そこには影も一筆添えたい。

「トトロの世界」として理想化される里山の風景は、現実の日本では急速に失われてきた。高度経済成長期の開発・農業の衰退・人口の都市集中によって、映画が描くような田園は多くの地域で過去のものになりつつある。映画が放つ懐かしさは、失われたものへの郷愁でもある。

埼玉県の狭山丘陵がモデルとされており、「トトロの森」の一部は公益財団法人トトロのふるさと基金によって保全活動が続いている。映画の感動が実際の自然保護行動につながっている点は、珍しい例だ。

しかし「ジブリが描く日本の農村」が一つの様式美として消費されるとき、現実の農村が抱える過疎・高齢化・担い手不足の問題が、その美しさの陰に隠れる。両方が本当だ。

問いかけに変えて

バス停のトトロに最初に会ったのは、何歳のときですか? そして今見ると、何が変わって、何が変わっていないと感じますか?


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